宗教法人浄土宗 林光寺
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浄土宗鎭西派 京都知恩院末
本 尊 阿弥陀如来
開 山 閑蓮社泰誉故信大和尚 生所 甲州 俗姓 武田信景
元和七(西暦一六三)酉年五月十八日 八十歳寂

 開山所持の両祖の御眞影と法然上人真作御眞影があり、二祖尊像縁起の古文書を秘蔵す。

 林光寺の開山上人は、甲斐の国武田信玄の御子武田信景公が、母の志願に應じて弘治三年(一五五七)、同国山梨郡国坂帰命院岌徃上人の搨下において得度し「故信」と称した。

 永緑九(一五六六)年二月、中山記内、三技新六らを従えて遠江国相良山梨村に難を避け林光寺に住し、のち天正二年(一五七四)、従者等と錫を三島に留め、小庵を建て念仏説法して道俗を教化し、利生盛んであって庶衆の帰依する者頗る多かったが、翌三年五月武田勝頼が三河の長篠で、織田・徳川の連合軍に大敗し、武田の武将の多くが討死し、以後昔日のような精彩はなく頽勢が目立つようになった。

 天正四年武田の家臣川口出雲等が、又その後に野沢監物らが交々訪ね来たつて再び武田家を興さんことを懇願したが上人は承諾せず、かえって浮世の無常の道理を懇切に説き聞かせたので、臣等は因果應報を感発し翻意してそのまま三島に留まり天正五年三月、一字を建立し、遠州山梨の寺号を移して林光寺と称し、現代に至っている。(一説に故信上人は晩年甲州酒折東光寺村如来寺帰命院に住せられたとも云はれている)

 なお林光寺には武田家にゆかりのある信玄の孫と言われている神沢義発公の墓がある。神沢義発公については当山檀徒栗原家に古文書が蔵せられているが、神沢家墓誌には次のように刻されている。

神沢家墓誌

 還空院殿正誉覚心大居士 俗名神沢太郎左衛門尉義発父は武田晴信信濃守大膳大夫(信玄公)の摘男武田太郎義信であり、母は近藤肥後守藤原祐道の娘、「友」である。永禄八年三月五日(一五六五)誕生し、太郎丸と称し同九年八月義発と号す。
永禄十年十月父義信は讒せられ、祖父信玄の不興を蒙り禁獄せられ自害す。時に義発は三歳であった。これより氏を忍び豆洲上沢村に蟄居す。天正八年三月元服し神沢太郎左衛門尉義発と号した。天正十三年三月三島新宿に移住し(一六八三)、天和三年十一月五日卆した。五十一才、三島林光寺に葬る。

同妻 遊蓮院貞誉浄園大姉 近藤長右衛門尉祐富の娘
緑 元和七年三月七日卆
(二代以下中略)

 寺中に地蔵堂あり、川中島地蔵尊を祀る。蓋し軍中地蔵菩薩を深く信御した父信玄を偲び、川中島合戦はじめ、幾多の戦陣に斃れた将兵の菩堤を弔い、「厄除け川中島地蔵尊」として庶民の尊崇を受けている。

 当寺は東海八十八ヶ所の第七十番の観音霊場の礼所であり、西国三十三ヶ所の観音様を祀っている。

 往時西照院、専称院、蓮乗院(いづれも間口四間、奥行六間)の塔頭があったが、安政元年十一月の大地震により倒壊し、本山に出願して廃寺となる。駿河根古谷にある西岸寺は当山の末寺である。(増上寺記録)

 境内には木喰観正の碑、徳本行者の名号碑、唯念行者の名号碑等がある。当山三十世の長誉上人(服部賢長)は、特に唯念とは親交が厚く、その自筆の掛軸物を蔵している。
林光寺は武田と因縁が深いので、武田とゆかりの深い人達によって結成された「三島武田機山会」の事務所となっている。